こんにちは、itoです。
いきなりですが、昨日あなたは何回「ありがとう」と言いましたか?
「ありがとう」の語源は「有り難し」。
「有ること」が「難しい」という意味を持っています。
聞いたことがあることかもしれませんし、なんとなく言葉から予想できることですね。
「有ること」が「難しい」とは、「有ること」は「当たり前」ではないという想いを表しています。
つまり「有ること」が「ない」という地点に立って、その事柄を見ているということですよね。
例えば、大きな災害で家族と離れ離れになり、連絡がつかない状況を想像してみてください。
1日ずっと心配し続け、探し続けた結果、夜になり、やっと家族に会えたとき。
「無事に帰ってきてくれた!」と感じることでしょう。
きっとものすごく嬉しいですよね
安堵のあまり、無神論の私も神様に「ありがたや〜」と何度も頭を下げて感謝すると思うんです!
(無神論ではあるけれど、八百万の神?は信じているかも。ここにもあそこにも神様が宿っているという考え方は、日本古来のものらしいですよ)
でも、日常生活の中で、会社から帰ってきた夫や、学校から帰ってきた子供たちの顔を見たとき、同じくらいの嬉しさを感じることはありますか?
「前提が違うから当然同じじゃないでしょ!」
確かにこれは極端な例かもしれません。
では、こんな場合はどうでしょうか?
家に帰ってきた夫や子供。
その3時間後に、あなたはある事柄を知ったとします。
夫が乗った一本後のバスが衝突事故を起こし、乗客はかなりの重症を負っています。
今もなお、乗客全員が帰宅できない状況だと知ったら?
また、子どもの通学路で激しいバイク事故が発生し、バイクは横転して修復不可能な状態です。
周囲の建物には激しくぶつかった跡が残っています。
そのバイクの運転手は、アルバイトに向かうため、普段は子どもの下校時間帯に通学路を走っていましたが、その日はたまたま家に忘れた財布を取りに戻ったため、下校時間帯にはいなかったのです。
もし、いつもの時間にバイクがそこを通って事故を起こしていたら?
かなりの子供たちに被害が出たであろうことを知ったら??
あなたはどう感じるでしょうか?
(交通事故に遭う確率は、1年間で0.2%。つまり、約500人に1人が交通事故の被害者になるということです。
一生のうちに交通事故に遭う確率は約25%。これは4人に1人が交通事故に遭ってしまうということを示しています。
驚くべきな数値ですよね。)
それらの情報(交通事故)を知ったとき、すでに帰宅している夫や子供の顔を見て、感情に変化はないでしょうか?
帰宅した家族の健康状態には変わりはないのに。
それらの情報を知り、あったかもしれない辛い世界をありありと感じた瞬間、今ある幸せに感謝しませんでしたか?
知らないだけで、様々なことが現実世界には起こっています。
ただ単純に認識していないだけということは多いと思うのです。
前提=自分が知っていて、真実だと認識したこと。
人は、自分が持っている情報の中で、本当のことだと信じていることから物事を捉えている
と言えるのではないでしょうか。
自分の前提。
「当たり前」だと思っていることに無頓着になると、幸せを取りこぼすことが増えてしまうように感じます。
では、いつも「ない」世界を見ていればいいのか?
いつも交通事故に遭わないか心配し、地震が来ないかどうかを気にして、何も起こらなかったら安堵して・・・
人は「ない」を見つけるのは得意なんだそうです。
となると、簡単に「ない」は発見できてしまい、現実を悲観したり、批判したりする毎日になってしまいそうですよね。
それではきっと、幸せは遠ざかってしまいますよね。
じゃあどうすればいいのでしょうか?
「ない」世界を知った上で、自分の「ある」世界をしっかり受け止める
自分の「ない」ばかり拾い上げ、他人の「ある」世界ばかり見つめていては、幸せを捨てているのと同じなのではないでしょうか。
またその時見ている他人の「ある」は、自分の「ある」との比較ではなく、おそらく自分の「ない」との比較になっているはずだと思うんです。
男性と女性に優劣をつけるような行為だったりしそうです。
子どもはよく「〇〇ちゃんは〇〇ができるけど、私は・・・」とか、「〇〇くんは〇〇を持っているけれど、僕は・・・」と言ったりしますね。
そんなとき、あなたならどう感じますか?
(人のできるばっかり見てないで!)
(人が持っているものばかり見てないで!)
と思いませんでしょうか?
自分のことを卑下したり、自分の状況を悲しみ続けてほしいとは思わないですよね。
誰かの持っている「ある」を知ることは大切。
そして自分に「ない」ことを認めることも大事。
でも、最も大切にすべきことがあるような気がするんです。それは、
「ない」世界から自分の「ある」を見つめること。
そして、自分の「ある」をいかに理想の「ある」世界まで育てるか。
ナチス政権の最大の犠牲者を生んだアウシュヴィッツ収容所。
その残酷な場所から生き延びて解放された後に、自ら命を絶った人もいたそうです。
やっと自由になれたのに・・・です。
生き延びた人に共通していたことが1つあったそうです。
それは、精神までも支配されていなかったこと。
心の中の希望を自分で持ち続けていたのです。
どんなに小さくてもそこに「ある」ものを見続けていたと言えると、私は思うんです。
物質的に「ない」世界に身をおいていても、心まで「ない」にしない覚悟を持ち続けていた。
エディ・ジェイクさんの著書『世界でいちばん幸せな男』は、幸せを私に教えてくれた本の一つです。
(特に宣伝料とかもらっているわけではありません。私の個人的な紹介です。https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309208329/)
読んでいる時間は、「ない」世界を知るためでもあり、自分の「ある」世界を見つめるためのものでもありました。
この本では、「比較により自分の優越感を満たす」といった安易に手に入る一瞬の喜びを体感することはありません。
全部読むのは辛いかもしれない。
でも、もし『幸せ』について深く知りたいと願っている人には、手に取ってほしい一冊です。
読んでいただきありがとうございました